七変化

2000年11月13日

七変化


 大分前に、日本人がヨーロッパの音楽を演奏する際のその質について、ある有名なバイオリニストが批評文を書いたものを読んだ。その中にこんな一節があった。
「ヨーロッパの歴史ある伝統音楽を、あなたがた日本人は『演歌』という皿に盛りつけてしまう!」
 日本人演奏家全体がそうであると言っている訳でもないだろうし、またみんながみんな演歌っぽい演奏すると言っている訳でもないだろう。すなはち、この人の言いたかったことは、どうも「様式感」ということだったようだ。


 音楽にはそれぞれに様式、あるいは時代背景といった、その音楽独特の「らしさ」を醸し出すために必要と思われる概念がある。名演奏家と呼ばれる人々は、それぞれの音楽をそ「らしく」弾き分けることが出来るし、若い演奏家たちもそういった演奏を目標として日々精進している。ところが多くの日本人演奏家は、様式感をあまり重んじることなく、全て一色で演奏する傾向があるというのだ。この一色をこの人は「演歌」と感じたのだろう。しかし、どうだろう、こういった「一色」で成功している人も少なくないのではないだろうか?また、こういったことは、何も音楽に限ったことではないのでなないだろうか?


 例えば俳優、役者の世界はどうだろうか?連作「ダイハード」におけるあるいは「アルマゲドン」「フィフスエレメント」におけるブルース=ウィリスは、汗と油でぎっとりしたお父さんの顔が大写しになり、大変な局面やものすごい危険の連続だけれど、何とか必死で頑張ってついに何とかしてしまう的な役回りが多いし、古くは「スターウォーズ」「インディージョーンズ」におけるあるいは「逃亡者」「今そこにある危機」更には「エアフォースワン」「6デイズ7ナイツ」における、ハリソン=フォードの役回りはどうだろうか?一見回避不可能と思われる重大な危機を、非常に切れ味の鋭い頭脳と、並外れた忍耐力とでついに乗り切ってしまう、そんなかっこいいヒーローである。ある意味で、彼らは「一色」で、すなはち自分の最も売れる部分や魅力を最全面に打ち出して、次々に映画をヒットさせているのではないだろうか?


 もちろん彼らといわば対極をなすような変幻自在の俳優もいると思う。ゲイリー=オールドマンの「不滅の恋人」におけるベートーベンは、本当にこういう人物だったのではないかと思わせるほど真に迫っていたし、「ドラキュラ」における新解釈は同じ人物が演技をしているとは思えない程説得力のあるものだった。はたまた「レオン」や「フィフスエレメント」におけるあの正気と狂気すれすれの悪役は、見る人に初めての体験をさせてくれた。しかし彼さえも、こういう七変化とも言える「演じ分け」こそが彼らしさなのだ、と言えるようにも思う。


 音楽の世界では、グレン=グールドというピアニストがまず思い浮かぶ。生涯独身を通した彼は変わり者で知られていたが、晩年、録音に熱中するとともに、積極的にテレビに出演し、その中で演奏論を雄弁に語り、また著書の中で様式感の重要性について書き残している。しかしながら、彼の魅力というのは、その様式感を越えたところにあると思う。どの作曲家の作品を聴いても、すぐさまグールドだとわかるからである。とりわけ、バッハ演奏においては他のどの演奏家とも違うエネルギーに満ちていて、聴くものをぐいぐいと引っ張ってゆく。だが、そこにあるものは様式その物ではなく、様式というものを極めて詳細に熟知しているグレン=グールドという個性の姿であると思う。


 古典音楽がすべて演歌となってはいけないし、様式を学ぶことは確かに重要であると思うが、様式こそが重要なのであるという論にも異議を唱えたいと思う今日この頃である。




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投稿者 im-sendai : 2000年11月13日 14:00
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