水の話(5)文学と水 2003.8.X 初出

2003年08月01日

水の話(5)文学と水 2003.8.X 初出

[投稿者:大場理史]

というわけで水の話をしているうちに
諸悪の根源は人間の持つ、知性、なのではないか
などという極論めいたとろまで僕はきてしまったのでした。
人間の知性が諸悪の根源だ、などとなったら
なんともならないわけですが
その何ともならないところを
ギリギリまで問い詰めていくのが
文学、というものなのかもしれません。

埴谷雄高の死霊という小説に、虚体、と呼ばれる
限りなく造物主に近い視点を持つ存在が
出てきますが、
その、虚体、は大審問という裁判を開き
イエスも釈迦も呼び出して裁きます。
虚体は、イエスよ、お前は人間中心主義の教義を広め
その後の人類の歴史を人間同士による限りない戦争の歴史にしてしまった、とイエスを裁き
釈迦よ、お前は瞑想中に近くに落ちていたチーチカ豆を
何の罪の意識もなく食べただろう、
植物が光合成によって作り出している酸素の
有難さに思いも馳せずに空気を吸っただろう、と言って裁きます。
虚体、はもう暴君に近い裁きを行うわけです。
イエスや釈迦のような聖人でも
容赦なく裁かれてしまうのだから
僕ら凡人はもう話にならないと思います。
たぶん大審問にさえ呼んでもらえない。
イエスも釈迦も裁かれる大審問。

でも考えてみれば当然の話で
前回も書いたように地球上の多くの生物のうちで
宗教を必要とするのは人間だけです。
どうしても人間が作り出す宗教というものは
人間中心的なものになってしまう。
なんだかんだ言ってみんな人間としての
現世利益が欲しい。
そして雨後のタケノコのように次々と出てくる
新興宗教も、自分が救われたいとか
子供の人生が上手く行って欲しいとか
病気を治して欲しいと言った人間の要求に
答えるものになってしまう。
でもそういった人間が行う全ての宗教上の営みは
虚体、という太陽系も宇宙も時空という概念すらも
超えたスーパーユニバーサルな視点から見た場合
なんと人間中心主義的な行為なのだろう、と
見えてしまうわけです。

イエスは人間の救いしか考えなかったし
釈迦は宇宙の理法を探って悟りを開いたとは言っても
植物や空気の精の痛みにまでは思い至らなかったではないか、と。

一応、キリスト教徒の方や仏教徒の方が
気分を害されないよう記しておきますと
イエスが出てきた当時のユダヤ社会というのは
旧約聖書の律法にがんじがらめになっていて
神の定めた安息日に働いた者は死刑、などという
現代人からみると無惨としか言えないような事を
していたわけです。
そこにイエスが登場し、律法は人間のためにある
のであって、人間が律法のためにあるわけではない、
安息日に働いたからと言って死刑などというのは
本末転倒だ、叫んで人々に救いをもたらしたわけです。
イエスはユダヤの厳格な律法世界に
人間中心の、愛、の概念を持ち込んで
律法を完成させたスーパースターだったわけです。
文字通り救世主だった。イエスに悪気はなかった。
でも虚体は、イエスよ、お前の人間中心的教義が
その後の世界を人間同士による戦争の歴史にしてしまったのだ、と言ってイエスを裁く。
釈迦はどうかと言えば、前世で虎に自分の体を食べさせたとかいうエピソードからも推察されるように、
食物連鎖に対する罪の自覚が釈迦にはあった。
でも虚体は、釈迦よ、お前は瞑想中に近くに落ちていた
チーチカ豆を無自覚に食べただろう。
植物が光合成によって作りだす大気の精に感謝せず
無自覚に空気を吸っただろう、と裁く。

虚体、はまるでイチャモンをつけて絡んでくる
酔っ払いオヤジのようですが
水についてズラズラと書いてきて
地球も生物もみんな何かに生かされているのかも
しれないな、という視点を持ってから考えてみると
虚体の裁きも最もだな、と思えてきたりするから
不思議です。

広い宇宙の数ある一つ
太陽系の一惑星、蒼い地球。
その蒼さは水からきている。
そしてそんな惑星は少なくとも
太陽系には地球しかない。
そして水は雲をつくり
雨となって地上に降り注ぎ
地上に降り注いだ雨は
ミネラルを含んだ地下水となって湧き出し
湧き出した地下水は川となり
やがて海へと流れ込む。
そして海水は太陽熱によって
蒸発し、またまた雲を形成する。
雲はまたまた雨を降らせる。
植物達は太陽光から光合成を行って
酸素ガスを放出し、オゾン層を形成し
地球を生命が住める状態にしている。
そしてそういった環境を壊そうとしているのは
高度に発達した知性をもった人類だけ。
やはり人類の高度に発達した知性が諸悪の根源なの
かもしれません。
そういったことに対して
無自覚な人類はすべて、虚体、によって
裁かれてしかるべきなのではないか、と
僕は水の話を書きながら思ったのでありました。

ちなみに埴谷雄高の死霊には
神様、と呼ばれる知的障害のある少女が出てきます。
もう一人、宇宙の真理を知り尽くしているのに
言葉を話せないために精神病院に預けられている
黙狂、という存在。
僕はそれが非常に気になるわけです。
やっぱり人類の知性が諸悪の根源であって
真実は沈黙にあるのかな、と思ってしまうのです。
仙台四郎さんも言葉を話せないというだけで
実は宇宙の真理を知っていた神様だったのかもしれないな、などと考えてしまいます。
そんな仙台四郎さんを今も大切に祭っている
仙台商人に僕は敬意を持ってしまいます。

蛇足となりますが
埴谷雄高の実家は福島県の神道の家だったそうです。
由緒ある神社、神道は、たいてい鎮守の森にあって
自然を大切にしていますが
埴谷雄高のスーパーユニバーサルな視点に立った
広大な思想の原点もその辺にあるのかな、と
僕は思ったりします。
僕が文学的問いに取り付かれて
神道を探り、知的障害者の意味づけを
探っているというのは
ラインとしては間違っていないような気が
してきました。

と、ズラズラと水の話を五回に渡って
書いてきたわけですが
地球と水
人類と水
生物と水
宗教と水
文学と水
水って何なのだろ、と思うわけです。

-水の話(完)-

死霊〈1〉 (講談社文芸文庫)

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死霊〈3〉 (講談社文芸文庫)


神歌





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投稿者 大場理史 : 2003年08月01日 00:00
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