es muss sein 運命の声

2004年12月08日

es muss sein 運命の声

ボロロ族にも差別はある。

僕は衝撃を受けた。
ボロロ族にも、生地での差別や
粗野と洗練、富者と貧者の差別が
あるらしいのだ。
つまりボロロ族にも
俺は生粋の江戸っ子でい、とか
お里が知れるぜあんた、とか
お前在日だろ、とか
あいつのファッション、ダセエよ、とか
私、オシャレさんよ、とか
俺んちは金持ちのボンボンでい、とか
うちは金がないから、どうせ息子も
大学になんてやれないよ
というのがあるらしいのだ。

レヴィ=ストロースの、悲しき熱帯、に
アラグアヤ河とサンフランシスコ河の
あいだの中部ブラジル台地に住んでいた
原住民、ボロロ族の話が出でいる。
レヴィ=ストロースが観察したところに
よると、ボロロ族の集落においても
集落のそれぞれ東側と西側どちらに
生まれたかで、川上(かわかみ)の者
川下(かわしも)の者と呼んで
区別するらしい。
そこに祖先の氏族の血統のよしあしが
入り、赤い家族、黒い家族とに分けられ
さらに上中下の三つの階層に分けられる。
そして上層階級は上層階級と
中層階級は中層階級と
下層階級は下層階級としか
結婚できないというのだ。
これは立派な門地差別ではないか。
誰かボロロ族に文句を言え、と僕は思った。

ボロロ族においてもシェイクスピアの
ロミオとジュリエット物語があるのだろうか
敵対する上層階級の黒い家族と赤い家族に
生まれてしまった若い男女が恋に落ち
おおロミオ、どうしてあなたは
ロミオなの、ウホホホホ……と。
そう考えるとシェイクスピアの
ロミオとジュリエットはある種
普遍的価値に到達している凄い作品だということが
あらためて分かる。

閑話休題。
またボロロ族においても
狩りや魚を獲ることの腕が良い者、悪い者
運が良いか悪いか
勤勉か怠惰かなどで
生活水準にも差がついてしまうらしい。
レヴィ=ストロースはボロロ族の
小屋の中の家財道具を眺め渡して
それを確認してしる。
ある氏族は豪奢で、ある氏族は惨め、という事が
アラグアヤ河とサンフランシスコ河のあいだの
中部ブラジル台地に住んでいた原住民
ボロロ族にもあったのだ。

僕は自分が間違っていたのかもしれない、と思った。
僕はこの地上のどこかにかつて楽園があって
あらゆる差別がなく、すべてが平等で
誰も傷つくことのない世界があったのだと思っていた。
でもそれは間違いかもしれない、とボロロ族の話で思った。
かつて共産主義革命が夢見たユートピアが挫折したように
地上に楽園など出現しないのかもしれない。
ボロロ族にも差別はあるのだ。

そもそも人間が自分を認識できるのは
他者によってだ。人間は他者との区別、差別
或いは差異によって自己を認識する。
(注 差異……封建時代の領主と農奴との違いは
差異にあらず。それは雲の上の存在。差異とは
それぞれメルセデス・ベンツとカローラに乗る
平等なはずの二人の市民の間に現れるあの感じ)
市民の平等を建前とする近代社会にあっても
人間はみんな差異の中にあって
その中で傷つき、時に勝ち誇り、時に落ち込んで
時に嬉しみ、人格が作られていく。
あらゆる区別、差別、差異のない状態では
人間は自分のアイデンティティーを確立できずに
発狂してしまうだろう。
そして差異が欲望を生み出す。
友達がメルセデスを持っていれば
自分もメルセデスを欲しくなる。
そして市場社会はドライブしていく。

だが差異の中でこそ
何クソ一発当ててやろうと人は思うし
そこに活力が生まれる時もある。
背の高い人、背の低い人
美人な子、ブスな子
スリムな子、デブな子
色男、ブ男
髪フサフサ、禿げ頭
金持ち、貧乏人
洗練された都市住民、田舎っぺ
高学歴、低学歴
そういった差異が欲望を生み
エネルギーが生まれ社会は動いていく。

つまりみんなが自由に平等に自己実現した
ユートピアなんて存在しないし
あったとしても
そこにあるのは墓場の平和だけで
何も面白い事などないのだ。
第一、自由は不自由を前提としているし
平等は不平等を前提としている。
自己実現は奴隷状態を前提としているのだ。

自由を求める闘いの中にある時
私は最も自由感を感じた、言ったのは
サルトルだったと思う。
ノーベル文学賞を辞退した
ど偉いサルトル先生も悟ったように
自由を求めて闘って
自由を実現すれば虚しくなるのが人間なのだ。

人間が存在する限り差異は再生産され続ける。
その時代その時代でとんでもない貧乏くじを
引いてしまった人は造物主に文句を
言うしかないのかもしれない。

ボロロ族にも差別がある。
その事がさしているのは
きっと過去現在未来において
人間が社会を作れば必ず差別が
生じるという事なのだろう。

言葉狩りなどで、表面的には
差別はいけません、とすまして
いる現代だが
あからさまな差別は息を潜めても
差異はむしろ現代に生きるすべての人に
押しつけられている。

TVCMは
禿げは駄目です
デブは駄目です
ブスは駄目です
今時こうじゃなきゃ駄目です
と差異を人々に押し付けてくる。
そしてコンプレックスに基づいた欲望を
生じさせ、金を取る。
批判能力の育っていない子供達は
学校で禿げやデブを差別するようになり
自分に自信を持てない少女達は
過食症、拒食症に陥る。
みんな差異に振り回されギスギスしている。

言葉狩りというのもおかしい。
上は下、美は醜と対応している。
言語表現はすべて概念の相対化によって
成立しているのだ。
でなければ何も表現できない。
美人と書いた時点で
ブスが発生している。
で、ブスが傷つく。
背の高い人、と書いた時点で
背の低い人が発生している。
で、背の低い人が傷つく。
という事になったら
おそらく何も書けなくなる。
言葉狩りを極めていけば
きっとみんな黙して自殺してしまうしかないだろう。

そもそも僕たちは生きているだけで
誰かを傷付けているのだ。
就職したら失業者をどこかで
傷付けているだろうし
結婚したらどこかで
結婚できなかった人を
傷付けているのだ。

だが、しつこいようだが
ボロロ族にも差別はあるのだ。
差別は人間の業なのだ。
そう思えた時
僕は諦観と安らぎと
ほんのちょっとの希望の入り混じった複雑な感情に
とらわれた。
それは勇気に近いものだった。
差別は過去現在未来どこにいってもある。
それでも人間を肯定する。
人類を肯定する。
人生を肯定する。
その感情をベートーベンなら
きっとこう言うだろう
es muss sein ! 運命の声!

−es muss sein 運命の声(完)−


レヴィ=ストロース 悲しき熱帯  中公クラシックス


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投稿者 im-sendai : 2004年12月08日 11:05
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