ロン・ポール革命 1 -Ron Paul Revolution 1 ロン・ポールの衝撃

2007年10月01日

ロン・ポール革命 1 -Ron Paul Revolution 1 ロン・ポールの衝撃

[投稿者:佐藤研一朗]


2008年アメリカ合衆国大統領選挙(Wikipediaより)

Jeffersonian democracy (Wikipediaより)
http://en.wikipedia.org/wiki/Jeffersonian_democracy

<フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用>

ロン・ポール

ロナルド・アーネスト・ロン・ポール(英語名:Ronald Ernest "Ron" Paul 1935年8月20日 - )は、テキサス州よりの10期目の下院議員で、医師である。アメリカ合衆国ペンシルバニア州ピッツバーグ出身。テキサス州より2008年アメリカ合衆国大統領選挙への共和党立候補者。
目次
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* 1 略歴
* 2 政策
* 3 少年期・学生時代
* 4 家族
* 5 兵役と医師の経歴
* 6 議員時代:前期
* 7 1988年大統領選挙戦
* 8 新聞記事についての論争
* 9 議員時代:後期
o 9.1 選挙運動
* 10 外部リンク
略歴

ロン・ポールはペンシルバニア州ピッツバーグ近郊に生まれる。1953年同州のドーモントにあるドーモント高校を優等成績で卒業後、ゲティスバーグにあるゲティスバーグ大学へ入学。卒業後はデューク大学医学部で1961年に修士号を取得する。その後はデトロイトにあるヘンリー・フォード病院でインターンシップを受けた。キューバ危機の際、アメリカ空軍に徴兵されベトナム戦争を通じて空軍外科医として勤務した。大尉。

1974年に共和党議員へ立候補するも落選。その後1976年の議員選でもロバート・ガメッジに敗退するなどしたが、1978年に当選。1980年より2年間議員職を務めた。1988年アメリカ合衆国大統領選挙へアメリカ・リバタリアン党としての出馬で、3位に終わる。1996年に共和党へ再当選。以降数年にわたり再当選を繰り返す。

2007年に2008年アメリカ合衆国大統領選挙への再度出馬を表明。カリフォルニア州にあるロナルド・レーガン大統領図書館で2008年5月3日に行われた大統領立候補者のディベートにも参加し、各メディアに取り上げられるなど選挙活動を続ける。インターネットにおいて、名声が高く支持率が高い。

[編集] 政策

政治的立場は立憲主義、小さな政府を基調としている。 本来は小さな政府を推進する立場の共和党について、「大きな政府の党になってしまった」と言って批判している。

下院議員としては、新たな支出や増税に対して一貫として反対票を投じている。医者である事と掛けて「Dr. No」というあだ名がついた。

その他に支持している政策の主なものは、州の自治権強化、市民の銃器の所持、自由貿易等。

反対している政策の主なものは、連邦準備銀行制度、妊娠中絶の容認、死刑制度、所得税(違憲であると主張)、国民皆保健。

外交政策に関しては、不介入主義者である。国際連合と北大西洋条約機構からの脱退を支持。 「絡み合った同盟関係」を断つべきだと主張している。 戦争をしなければならないのは国民を守らなければならない時だけであり、下院による宣戦布告なしでの開戦は許されないと主張している。 イラク戦争に関しては、2002年の「イラクに対する兵力動員承認に関する法案」の下院での審議の際は徹底してイラクとの開戦に反対した。 大統領になった暁には、イラクから即時に撤退すると表明している。

[編集] 少年期・学生時代

ロン・ポールは、ペンシルバニア州グリーン・ツリー町で、ドイツ系ルター派移民の息子であるハワード・キャスパー・ポールと、マーガレット・ポールの間に生まれた。家族は、ピッツバーグのすぐそばにあるその小さな町で、酪農を営んでいた。彼は、7年間の大恐慌のさなか、5人兄弟の三男として生まれた。彼の父は、中学2年まで教育を受けたのち、兄弟のルイスとアーサーと共に、グリーン・ツリー酪農場の共同経営に携わっていた。彼は5歳から父の農場で働き始めた。その後彼は、新聞配達をしたり、また薬局で働き、運転が出来るようになってからは牛乳配達を行った。彼の牛乳を配達していた顧客の中には、伝説の野球選手、ホーナス・ワグナーがいた。

彼は1953年に、ペンシルバニア州のドーモント高校を優等で卒業した。彼は陸上競技にも秀で、2年生の部で、ペンシルバニア州大会の200m走で優勝し、400m走で2位の成績を残した。彼はレスリング部にも所属し、フットボールや野球もやり、そして生徒会長でもあった。

彼はゲティスバーグ大学の初年度の学費を、新聞配達、レモネード販売、芝刈りの仕事などで貯めたお金で支払った。ポールはゲティスバーグで郵便物や洗濯物の配達をする一方、大学の喫茶店を経営した。彼は膝に怪我を負い、陸上競技選手をあきらめたが、リハビリに水泳を選んだことがきっかけで、大学の水泳部に所属するようになった。彼には陸上競技チームを率いてくれれば全額奨学金が支給されるという申し出を受けたが、怪我が直ったとしても、もう以前のようなスピードは出せないのではないかと思い、申し出を断った。ポールはラムダ・シ・アルファ男性社交クラブの給仕、そして支配人にもなった。

彼は、兄弟のうち二人がそうであるように、一度はルター派の聖職者になろうかと考えたが、結局は医学の道に進もうと決心し、デューク薬科総合大学に入学したのち、1961年にそこで医学博士の学位を得た。彼は1961年と1962年、研修医としてデトロイトのヘンリー・フォード病院の内科で勤務し、1965年から1968年にかけては、ピッツバーグ大学の産婦人科で、同じく研修医として勤務した。

[編集] 家族

ポールと妻のキャロルは1957年2月1日に結婚した。キャロルがロンを、セイディ・ホーキンス・ダンスパーティ(女性が男性を誘うパーティ)に誘ったのが、最初のデートだった。彼らは別々の州にある大学に通っていたが、ずっと付き合っていた。そして二人はロンがゲティスバーグ大学4回生の時に結婚した。

彼らには、ロニー、ローリ、ランド、ロバート、ジョイの5人の子供がいる。また、18人の孫とひ孫が1人いる。デトロイトで研修医をしていた時期、キャロルは家の地下室でダンス教室を開いていた。ロバート、ランド、ジョイの3人の子供も、同じく医者になった。ランドは眼科、ロバートは家族医療の専門医である。連邦議員の父と同じく、娘のジョイは、産婦人科医である。ポールは、子供達が学部生や医学生の間、州の学生援助ローンを受けさせずに、代わりに学費を出していた。彼は同様に、議員年金に加入しなかった。彼は週末はいつも、レイク・ジャクソンにある自宅に帰っている。

ポールが14区で選挙運動をしていたとき、妻のキャロルは、夫に協力するため、ロン家の家庭料理本を作り、それを選挙区民に配ることにした。その料理本は、ポール一家の写真で埋め尽くされていた。初版からかぞえて5版目が出版されている。彼女や他の家族は、夫の議会選挙戦のホームページに、「今週の料理」を掲載し続けている。

[編集] 兵役と医師の経歴

ポールの医学訓練は、アメリカ空軍のキューバ危機の時の兵役によって中断された。彼はベトナム戦争の最初の数年頃まで軍隊にいた。彼はベトナムへは行かなかったものの、1963年から1965年まで、現役兵として働き、韓国、イラン、エチオピア、トルコなどに赴任した。1963年から1965年、彼はテキサス州サンアントニオのケリー空軍基地の航空医官として、パイロットの耳鼻咽喉の治療にあたった。そして、1965年から1968年まで、ピッツバーグでの研修医の傍ら、空軍州兵に従事した。彼は空軍時代には、大尉に任命されている。

医大を離れて2年後、ポールはサンアントニオにある教会病院の救急救命室で、時給3ドルで働いた。そののち彼は産婦人科医として、4000人もの赤ん坊を取り上げた。彼はブラゾリア郡では唯一の産婦人科医で、とても忙しく、テキサス州レイク・ジャクソンの退職医師の仕事を奪うことになってしまった。彼は医師だった時は、「私は月に40から50人の赤ん坊を取り上げ、また数多くの手術もした。」と語っている。彼は決して、メディケア(高齢者向け医療保険制度)や、メディケイド(低所得者と身障者の医療扶助制度)の制度を受けつけない医師であったが、その代わりに、金銭に困っている患者には、無料や割引料金で治療したり、また分割払いに応じた。

[編集] 議員時代:前期

数年間、地元で医師として働いた後、ポールは政治の世界に入り、1974年のテキサス州政治集会で、共和党の代表になった。1971年8月15日、それは、リチャード・ニクソン大統領が、米ドルの金本位制からの完全な脱却を宣言した時、彼は政界に入る決心をした。彼は、「その日から全ての貨幣は、もはや本来の価値によって決まるのはなく、政治によってその価値が決まることになるだろうと思い、私は愕然としたんだ。」と言っている。

彼は、民主党候補者が大勝した1974年に、テキサス州22区の候補者として共和党から出馬したが、現職の民主党のロバート・R・ケーシーに敗れ、落選している。ジェラルド・R・フォード大統領が、ケーシー議員を連邦海事委員会の長官に任命した1976年4月、後任の議員を選出するための補欠選挙が行われた。ポールはその選挙で勝利するが、6ヶ月後の通常選挙で、民主党のロバート・A・ガメージに議席を奪われた。投票数は、18万票に対し、わずか300票差の接戦だった。次の1978年の選挙では、彼はガメージに勝利した。彼は1980年と1982年の選挙でも再選した。ポールはその地域では、下院における初めての共和党議員だった。彼は、1976年の対ジェラルド・フォードの大統領選で、ロナルド・レーガンを支持する、たった4人の共和党議員のうちの1人で、その時彼は、共和党の全国党大会で、テキサス代表団がレーガンを支持するのを容認している。

ポールは、22区の下院議員任期中も、月曜日と土曜日は赤ん坊を取り上げていた。この時期に彼は、自分が違憲だと思った法律には賛成票を投じなかったことから『ドクター・ノー』と呼ばれ、次第に評判を集めていた。

ポールは、アメリカ連邦議会で、1970年代で初めて下院での任期制限法を提案した議員で、彼自身、4期の任期中、視察旅行への参加や、議員年金への登録を辞退していた。また彼は、インフレ率に応じて議員給与を下げようと提案していた。1980年、共和党員の大多数が賛成していたカーター大統領の、徴兵登録制度を復活するという提案を、ポールは、彼らの見解の矛盾を指摘し、またこれはウォールストリート・ジャーナルの記事によるが、彼らは銃を登録するより子供達を登録したがるだろう、と言った。

この頃ポールは下院金融委員会の一員で、彼は連邦準備金制度がインフレを引き起こしたのだと考えていて、この制度を非難していた。彼はまた、 1980年代の貯蓄貸付危機の対策に考えられていた、銀行制度の規制解除にも反対していた。1982年に下院によって作られた、アメリカ金委員会は彼の提案によるが、この委員会から引き出された彼の結論は、ケイトー研究所から出版された、「The Case for Gold(金の正当性)」に書かれている。1978年から1982年にかけての、ポールのスタッフのリーダーは、ルー・ロックウェルである。ポールは毎年恒例の連邦議会の野球大会の常連メンバーだった。

ポールは1984年のアメリカ合衆国上院の共和党予備選挙で、フィル・グラミーに敗れた。彼は下院での再選ではなく、上院での活動を選んだのだが、結果彼は1985年に議会を去って医療の世界に戻ることになり、彼の議席は、テキサス州下院の議員だったトム・ディレイが引き継いだ。辞任演説でポールは、「我が国の憲法の制定者は、広く市民の幸福を目的としていたが、今や特定の人々の利益が目的となっている。ここでは票の取引が正当な施策としてまかり通っている。お使い坊やの議員達は凡庸な人種なのに、自由の擁護者は変人と思われている。真の自由を愛し、州の権力が強大になることを否定し、本物の皮肉屋を残さない者にとっては困難だ。」と語った。

[編集] 1988年大統領選挙戦

1988年アメリカ合衆国大統領選挙で、ポールはアメリカン・インディアンの活動家のラッセル・ミーンズに勝ち、アメリカ大統領へのリバタリアン党の出馬候補となった。46の州とワシントンD.C.の候補者名簿に名前が載ったことで、彼は一般投票で、共和党のジョージ・H・W・ブッシュ、民主党のマイケル・デュカキスに続き、3位となった(431,750票-0.47%)。 ミズーリ州では、ポールは、セイント・ルイス・ポスト・ディスパッチ紙がいうところの“事務的な不手際”のため、投票用紙に名前が記載されない候補者として扱われたので、大きく票を離されることとなった。彼はロナルド・レーガンの初期の支援者だったにもかかわらず、レーガン政権(対立候補であるジョージ・H・W・ブッシュが、その時の副大統領である。)が作った先例のない巨額の赤字を厳しく非難した。

リバタリアン党候補の時期、ポールは党の旗手と思われていた。そして、銃の所持権、保守的な財政政策、ホームスクーリング、妊娠中絶といった問題に関してポールがとった立場に同意する多くの支持者を獲得し、また、他の問題でも、連邦政府は間違った方向性に向かっている、と考えている者からも支持を勝ち取った。おかげで全国的な彼の支持基盤が生まれ、彼を議員生活に戻る気にさせ、選挙戦の資金面でも彼を支えた。2008年のポールの選挙事務長は、ケント・スナイダーで、彼は1988年の選挙の時に初めて活動に加わったのだが、当時ジョン・マケイン議員は彼に、「君は議会で最も正直な男の下で働いているんだよ。」と言われたそうだ。

大統領選への出馬中、ポールは選挙活動以上に、もっと多くのことをやろうとした。つまり、自由精神の思想をもっと広めようと、選挙年齢に満たない者もいるにもかかわらず、小中高生や大学生グループとの対話を頻繁に行った。「我々はこの選挙と同じく、未来の世代にも関心があるんだ。この子供達も、いつかは投票に行く年齢になるだろうし、もしかしたら、家に帰って両親に我々のことを話す可能性だってあるだろう。」その年、彼は国内中を回って、自由市場経済や増え続ける政府の累積赤字などについての話をした。「それで我々は多くの若者と話をするんだ。彼らがこの請求を支払い、この借金を背負うことになる。この若者達が、政府においても、次の時代を担っていくだろうから。」選挙の後、ポールは金銭に関するビジネスを開始した。理にかなった経済と教育について研究するシンクタンクを設立し、投資についての会報を発行した。そして議員生活に戻るまで、医師の仕事を続けた。


[編集] 新聞記事についての論争

1985年からポールが発行している会報、「ロン・ポールのサバイバル・レポート」の1992年版に、人種や政敵を中傷するような記事が掲載されていた。「アトランタ・プログレッシブ新聞」によると、ビル・クリントン大統領を隠し子問題とコカイン摂取疑惑で非難し、アメリカ下院のバーバラ・ジョーダンを、ペテン師で十分な教育を受けていない被害妄想者だと酷評していた。記事は、政府は未成年者に対し刑事責任を問える年齢をもっと下げるべきだと書かれており、「路上で寝泊りし、犯罪組織に加わってきた13歳の黒人の男の子は、力が強くて体も大きく、見た目も恐ろしいし、犯罪も犯すから、もう十分大人だ。だから、大人と同じように刑法でも取り扱うべきだ。」とまでいっている。またその記事はこうも言っている。「黒人の5%は、政治に対する常識のある意見を持っている。」「もしあなたが10代の黒人男性の強盗にあったことがないなら、彼らがどんなに足が速いのか、想像もつかないだろう。」「ワシントンD.C.の黒人男性の95%は、犯罪予備軍か、または完全な犯罪者だ。」

2001年のテキサス・マンスリー誌によるインタビューで、ポールは、会報には彼の言葉として掲載されたが、実はゴーストライターによって書かれた記事だと認め、彼自身の考えではないと釈明した。彼はジョーダン議員に関しての軽蔑発言については、「まことに悲しむべきことだ。バーバラと私はずっと一緒にやってきたし、実際の彼女は本当に明るくて素晴らしい女性なのだから。」といった。この時から彼は、彼の名前で出されるものについては、内容に同意できない記事であっても、道義的責任を取るようにした。テキサス・マンスリー誌によると、「今回のように、本人が困惑するような記事が彼の見解として紙面に掲載されたことで、4期の下院議員を務め、一度大統領選に出馬した者として、ポールは二度と、他人まかせな記事は出さなかった。」という。


[編集] 議員時代:後期

[編集] 選挙運動

1970年代に経験したよりも厳しい戦いのあと、ポールは、1996年に下院議会に帰ってきた。当時は1994年の選挙で共和党が上下両院で勝利した後だったので、彼は議会で以前よりも有意義にに活躍できるだろうと期待していた。共和党候補者選出選挙での彼のライバルは、グレッグ・ラフリンで、彼は共和党内の指導者層から支援されていた。その中には、議会議長のニュート・ギングリッチや、当時テキサス州知事だったジョージ・W・ブッシュがいた。現職のラフリンは、1年前に民主党から共和党に移党しており、共和党全国委員会は、他の民主党員が彼に倣って移党することを期待して、ラフリンを全面的に支援した。こういった全国委員会や全米ライフル協会といった支持組織の努力にも関わらず、挑戦者だったポールがこの予備選挙に勝利した。非現職から議員に返り咲いたのは、彼にとって3度目である。

ギングリッジや他の共和党の指導者達は、ラフリンのために、選挙区を訪れて遊説を行っていたが、一方ポールは、ラフリンが移党する14ヶ月前の、ラフリンの投票記録に対するギングリッジの厳しい批判を引用した新聞広告を掲載していた。ポールの友達であり、野球投手で選挙区民のノーラン・ライアンは、名誉選挙事務長を務め、ポールのために広告に登場し、さらに、税務活動家のスティーブ・フォービスも彼を支援した。今回ポールは、以前出馬した22区ではなく、沿岸側の下院14区で選出された。この変更は、選挙区が再区画された結果で、ポール自身は、同じレイク・ジャクソンの家に住み続けている。

秋の選挙での彼のライバルは、法定弁護士のチャールズ(通称:レフティ)・モリスで、選挙戦では、ポールがかつて、州の規制や古参の新聞に味方して連邦政府の薬物法の撤廃に賛成したことや、アメリカ労働総同盟・産業別組合会議に支援されたことを持ち出して、ポール陣営を激しく攻撃したが、わずかな票差で敗れ去った。ポールは逆に、モリスは弁護士と大手労働組合の手先だというレッテルを貼った。ポールは、彼の全国的な支援組織のおかげで、モリスよりも多くの選挙資金(モリスの47万2153ドルに対し、1200万ドル)を得た。ポールの政敵を含む民主党員のコンサルタントをしているケン・ブライアンは、「指導者レベルを除くと、彼は下院で最大の支援基盤を持っている。」といっている。ポールへの寄付金の大部分は、個人からの少額の寄付から成り立っている。その年、彼は、両議会において、個人からの寄付金額の多さで、ニュート・ギングリッチ、ボブ・ドーマンに続き、第3位となった。

1998年、彼は、対立候補の70万ドルに対し210万ドルと、選挙資金獲得でも大差を付け、党内予備選挙と続く本選挙に勝利した。対立候補は民主党の米農家で前マタゴルダ郡 (テキサス州)判事のロイ・スニーリーで、ポールは「スニーリーを疑問視しよう!」と有権者に警告する広告を出し、11%差で勝った。ポールはスニーリー判事が、自身の給料の5%アップ(判事達の旅費予算の400%アップを含む)する議題に賛成票を投じたこと、そして、新たな政府機関を作り、それに自動車のナンバープレートの登録料を管理させる法律を制定したことで、官僚の人数を増やしたことを非難した。それに対してスニーリーの協力者は、彼は郡職員の「生活費」としての給料を5%上げることに賛成しただけだと主張した。ポールは、自分は議員の給与引き上げには、1度も賛成したことはないと反撃した。

2000年、スニーリーは、ポールに再び挑戦したが、ポールは60%もの投票を得、選挙資金でもスニーリーの110万ドルに対し、240万ドルを得て、選挙に勝利している。ポールは2002年、2004年(対立候補なし)にも再選し、10期目を迎えた2006年では、対立候補の60万ドルに対し 120万ドルと、選挙資金でもはるかに上回っている。2008年の選挙では、共和党予備選挙で2人の対立候補(ポールに解雇された以前の側近であるエリック・ドンデロと、フレンズウッド市の市議会議員のクリス・ぺデン)がいたが、ポールは勝利した。


[編集] 2008年アメリカ合衆国大統領選挙

[編集] インターネットでの人気

ポールは5つの共和党の大統領候補討論会に参加し、そのうちの4つの討論会で、討論会のインターネット投票、もしくは携帯メール投票の票数で、勝利している。第一回の討論会を終えて、ABCニュース (アメリカ)は、インターネットでのポールの確固たる存在について、「彼の支持者は、バイラル・マーケティング(=口コミ宣伝)の仕組みを熟知している。長期的な視点で大統領選挙運動を捉えており、インターネット調査やブロクを開設することで、少なくとも、今の時流を認識している。」と述べている。雑誌USニューズ&ワールド・レポートは、彼の増加するインターネットでの人気を、「ポールの支援者はインターネットに集結していて、彼らの熱意によって、どのインターネット情報の統計でも、ポールは、はるかに有力な候補者達に混じって、姿を現している。USAトゥディ新聞はポールを、『ネットの申し子』と呼んでいる。

テクノラティ、ヒットワイズ、アレクサ・インターネットといった、ブログ圏での人気を比べることができるネット検索エンジンによると、ポールの名前は、インターネットでよく検索される言葉の上位にランキングされることからも、インターネットでの彼の知名度の高さが確認できる。それは彼の支持者が意識的にアクセスしてポールのランキングを上げており、その統計は正しくない、という意見もあるが、テクノラティ社の広報のアーロン・クレーンは、ポールのネット検索での多さは、技術的に最善の方法を用いた正確な統計によるものだと、断言している。ポールは、YouTubeにおいて、全大統領候補者の中で、自分が一番のアクセス件数(430万以上)であり、2007年5月20日時点で、メールマガジンの登録者数でもトップを獲得し、それはバラック・オバマ氏をも上回ると、自身で発表している。ポールのYouTubeチャンネルのアクセス数は、常にトップ40圏内に位置し、2007年9月27日時点での視聴者は2万9000人に達する。

[編集] 政治的立場

ポールのニックネーム“ドクター・ノー”は、彼の医学博士としての肩書きと、それから『提案された法案が、明確に、合衆国憲法に沿ったものでない限り、決して法案に賛成票を投じない』という、普通の人とは間逆とも取れる、彼の強固な態度に由来している。ポールはオーストリア学派の経済哲学を信奉している。これは、中でも特に、貨幣供給に対する政府の統制は、結果的に経済的非効率と通貨不安を引き起こす、という学説を持つ。ポールはこの考えについて、数冊の本を書いている。 彼は、オーストリア学派の経済学者、フリードリヒ・ハイエク、マーレイレイ・ロスバード、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの3人の写真を、事務所の壁に掲げている。

ポールの不干渉主義という外交政策であり、それ故、2008年合衆国大統領選挙の共和党候補者の中では、2002年のイラク戦争決議案に反対をした唯一の候補者となった。彼はアメリカ同時多発テロ事件の対応として軍事力を行使する法案に賛成票を投じはしたが、特定のテロリストを対象とした他国商船拿捕免許状と報復の権限を大統領に与えること、などいった戦争の代替策も提案している。彼は強固な国家主権を維持するためとして、国連やNATO(北大西洋条約機構)からの脱退を主張している。彼は市民的自由を第一に考えており、米国愛国者法、国民IDカード、連邦政府の拷問の使用、国内監視、大統領自治権、などに反対し、そして自由貿易を支持し、それゆえ管理貿易のための組織である北米自由貿易協定と世界貿易機関を否定している。彼は、より強固な国境警備と、不法滞在外国人に対する生活保護の停止を主張している。国籍の出生地主義と恩赦には反対している。彼は2006年の安全国境柵法に賛成票を投じている。


ポールは通常、公共投資やイニシアティブ(住民投票制度)、租税に関しては、ほとんど全ての提案に反対票を投じている。彼は、決して税金は上げないし、赤字予算には絶対に賛成しないと誓約している。ポールは、政府の予算を2000年の支出水準に規模を縮小することで、税制の中立性を保ちながら、個人に対する所得税を廃止しすることが出来るという信念を持っている。彼は、個人の生活や、諸外国及び国内の機能に対するアメリカ政府の役割を、大幅に減少すべきだと思っている。彼は共和党は小さな政府という誓いを忘れ、大きな政府のための政党になってしまっているといっている。ポールは、アメリカ合衆国内国歳入庁、教育省、エネルギー省、国土安全保障省、アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁、州際通商委員会といった連邦政府機関を、必要のない役所仕事だといって、これらの大部分の廃止を主張している。また彼は、銀本位制や金本位制といった兌換紙幣に賛成している。また、自由貿易が金利と貨幣供給を決定した時経済の不安定さは減少するのであり、また、国債は政府の支出に応じて発行されていて、連邦準備制度は、抑制のない膨張した貨幣供給を政府が行うのを許可してしまっている、といった理由から、連邦準備制度中央銀行の段階的廃止を提唱している。

ポールは、州権、銃の所有、政治犯に対する人身保護令状、陪審による法の無視の権利、自主的な又は非公式の学校内礼拝を認める憲法改正、などを支持している。彼はまた、労働者の社会保障制度からの脱退の許可、医療の分野における自由市場の拡大、公害防止に対する私的所有権の認知、投票用紙への党・候補者名記載の増進に賛成している。ポールは、徴兵制度、麻薬撲滅キャンペーン、社会医療制度、福祉国家論、海外援助、司法積極主義、連邦死刑制度、結婚・教育に対する連邦の規制、インターネット・ギャンブルの禁止に反対している。そして彼は、同性愛者の行為と同様に異性愛者も含んだ問題に対して、破壊的な行動に焦点を合わせた、彼が”礼儀正しい“と呼ぶところの、軍の“聞かざる・言わざる政策“の施行廃止を支持している。彼は、未婚夫婦や同姓カップルによる養子縁組に対しての政府の補助金制度に反対票を投じた。ポールは自身を、中絶に対する”ゆるぎない反対者“だと言っており、母体及び胎児の健康に対する医学的判断の規制は、”国家レベルの最高位の取り扱い事項だ“という信念を持っている。
<フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用終了>


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投稿者 佐藤研一朗 : 2007年10月01日 12:17
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