<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<rss version="2.0">
<channel>
<title>仙台インターネットマガジン　仙台の地元情報から、アート、音楽、文学、スポーツ、エッセイ、旅、政治まで: Archives ' 分かりやすい現代美術　近江俊彦 '</title>
<link>http://www.im-sendai.jp/</link>
<description>仙台インターネットマガジンは、仙台発のインターネット上のフリー雑誌です。</description>
<language>ja</language>
<copyright>Copyright 2012</copyright>
<lastBuildDate>Thu, 05 Oct 2000 11:53:42 +0900</lastBuildDate>
<generator>http://www.sixapart.com/movabletype/?v=3.33-ja</generator>
<docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs>

<item>
<title>現代美術以外の表現形態における現代性</title>
<description><![CDATA[<img src="http://www.im-sendai.jp/rensai/pro/oumi.hyousi.jpeg">

 　ＥＶＡＮ　ＰＡＲＫＥＲがまた仙台にくる。誰が何といおうと、現代に残る数少ない前進し続けるＪＡＺＺプレイヤーだ。 

　ＪＡＺＺは死んだ！ということはよく言われることだ。事実、私も１９６９年のアルバート・アイラーの死をもってＪＡＺＺという表現ジャンルは、幕を閉じたと思っている。 

 　今でもビッグネームはいっぱい居るが、ＪＡＺＺとしてのありようとは個人表現の深みを押し広げていくところに有ると思う。その意味では、コルトレーンや、アイラーが居なくなったＪＡＺＺ界では前進にブレーキがかかったようで停滞期に入ったように見える。そして停滞は死を意味するのだ。 

　アメリカにおけるＪＡＺＺはこうして幕を閉じたように見えるが、実は北欧で脈々と前進を続けている人達が居る。あまりコマーシャルではないが、そして方向性は必ずしもＪＡＺＺの脈絡を踏襲したものではないかもしれないし、聞いていてちょいと触感が違う。しかししかしである。そこでＪＡＺＺの命は生き続けているのである。 

 　ＥＶＡＮは、その旗手的な存在である。その表現は、北欧のもう一人の旗頭であるペーター・ブロッツマンの豪快さに対し、極めて理知的な味わいがある。サックス一本（とりわけソプラノは凄い）から、つむぎだす音の多様さは、他のプレイヤーの追随を許さないものがある。そして、我々はなお前進を繰り返すリアルタイムの音楽表現に向かう事ができるのだ。 

　さて今日の本題。その、ＥＶＡＮ　ＰＡＲＫＥＲの表現についてである。コルトレーンやアイラーの表現と比べると何かが物足りないのだ。まあ、極論すると、黒人以外の人種のプレイヤーで事足れりと思わされた人は私の場合、皆無である。精神性の深さかな？となんとなく思っていたが、チャーリー・パーカーが宗教的な発言をしていたかというと全然そんなことはないし、という事で最近なんとなくまとまりかけているのが、表現する音楽要素よりも、まさに出てくる音そのものの感触が、表現を支える上で重要な役割を担っているのではないかという考え方である。そして、その音から、表現の深さや精神性の高さを感じ取っているのではないかと思うようになってきた。 

　リズム、メロディ、アンサンブルといった要素によって成り立っている音楽も突き詰めると、声や、音そのものの魅力が表現の魅力に直結しているのではないかということだ。 

　フルトベングラーも、彼の特質が熱狂にあり彼のもとでベルリンフィルは荒れ狂ったような音色でそれに応える。その音そのものに我々はベートーべンや、ブラームスの精神性を投影させて聞いてしまっているのではないか。 

　ビリー・リディの声しかり、美空ひばりの声しかり。そして、その音（声）を求めてトレーニングを積んでいくのではないのかと、そう思うようになってきた。 

　パブロ・カザルスの宇宙的な広大さ巨大さを感じさせるのも、彼の演奏全体からではなく、彼のチェロと彼の奏法が調和し産み出される音そのものに、表現の本質が有るのではないだろうか。 

　現代においては、演奏技術や理論が多様化し、かつ、評論家も批評のしやすさから、音楽の構成要素についての話ばかりで、表現の本質ということにはなかなか触れられることは大変に少なくなってきていると思う。また、表現者のほうも、技術や理論のほうが、目の前にぶら下がった目標を一つ一つクリアして行けば目に見えやすい進歩につながる事から、そういった方向ばかりを追い求める事になってしまっているような気がする。 

　表現の本質は、やはり、自分の内に在るものであり、外界にむかって求めるものではないし、ましてや与えられるものでは全くないと考えている。自分の内に在るもの（表現）が何者なのか、またそれを探すための方法は誰も教えてはくれない。教えられるものではない。全ては自分で解決していかなければならない問題だ。 

　実はこういった本質論はずっと変化する事のないものだと信じてきたのだが、現在の状況を見るにつけ、これからの若い作家達が作っている作品を見るにつけ、また、彼らの今後の展開を考えるにつけ、現在の状況に対し、若干不安を感じさせられていた。我々のような重厚長大を追い求める美術表現は、私の世代をもって、終焉を迎えるのかなと思っていたものだ。 

　しかし、今は、奈々奇君という本質的な表現者が居る。彼の表現のどこがそんなに気に入っているのかなと考えていたが、やはり、音そのものの強さ美しさが、大きな魅力となっているのだと改めて感じた。 

　かれは、パフォーマーであり、音楽家ではないかもしれないが、音楽の本質は音そのものにしかないと思う今日この頃です。]]></description>
<link>http://www.im-sendai.jp/archives/2000/10/post_25.html</link>
<guid>http://www.im-sendai.jp/archives/2000/10/post_25.html</guid>
<category>分かりやすい現代美術　近江俊彦</category>
<pubDate>Thu, 05 Oct 2000 11:53:42 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>しょせん誰にも聞いてもらえないじゃない！</title>
<description><![CDATA[<table width="300" bgcolor="#ffffff">
<tr>
<td>
<BR>
<a href="http://www.im-sendai.jp/rensai/pro/o.t.pro.html" title="分かりやすい現代美術"><IMG SRC="http://www.im-sendai.jp/rensai/pro/oumi.hyousi.jpeg" alt="近江俊彦プロフィールに飛びます。"></A>
</td>
</tr>
<tr>

<td bgcolor="#ffffff">
<FONT SIZE="2">(上の写真をクリックするとプロフィールに飛びます。)</FONT>
</td>

<td>
No.3


</td>
</tr>
</table>
<table width="80%" bgcolor="#ffffdd">
<tr>
<td >
　
<CENTER> <FONT SIZE="6">現代美術の歴史と今後の表現</FONT></CENTER><BR>

<CENTER>（4）</CENTER><BR>
　今月も、先月からの続きとして、今後のアート表現のありようを探る日々についてまとめてみます。<P>
　たまたま、縁があり国分町のスナックで、店を閉める前のパフォーマンスとして、個展をやってみな
いかと言う話があって、自由に展示させてもらうという条件で個展を行いました。
店内を、黒い布で覆い、カウンターとテーブルと、カラオケ用のテレビの画面だけが見えるのみの
状態にして、店内の雰囲気を消し去ったうえで、私の作品を展示したのでした。あげくに音楽まで
自作し流しっぱなしにしていたので、どのような場合でも作品を観賞せざるを得ない状況を作ったし、
内容的にも全力を出しきった作品だったので、個人的には大満足でした。
展示が終わり、しばらくして飲みに行ってカウンターに陣取り、客たちの反応を見ていたのですが、
（客層は３０〜５０代のサラリーマン風の方々です。）入ってくるなり空いているテーブルにすわり、カ
ラオケの本を開いたまま下を向きっぱなしで、一切周囲を見ようとしない、聞こうとしない状態で、注
文する時以外は一緒に入ってきたメンバー同志で会社の話をし、何事も無かったように出ていくの
でした。<P>
　これには、ちょっと愕然とし自分なりに結論付けてみました。いつもの店内（日常）とはあまりにも違
いすぎるはずなのに、非日常に対して反応する力（一般的には免疫力といいますか）があまりにも
低下しているのです。一体全体この人達は、ナイフをつきつけられても無反応なのだろうか？とさえ
思わせられたのでした。<P>
　しかし、このように感性を硬く閉ざしたまま生きていく事は、ある意味で楽であるともいえるかもしれ
ませんが、やはり、一人一人が自分の感性で、感じ、語りあうところにしか文化は育たないし、文化
とは、社会全体が自由を獲得し、自分自身に自由をもたらす潤滑剤みたいなものですから、それ
が、質量とも潤沢に存在しないとあるべきものがあるべきところに行き渡らなくなるし、それが、余計
な閉塞間を生むことになると思います。<P>
　文化とは、 文化住宅とか文化遺産のような使われかたをしますが、そのような世間離れしたもので
はなく、一人一人のプライドを形成する土台（基礎）であると思います。プライドとは、絶対個としての
自分自身を意識できるということです。自分の五感で感じたものを絶対の基準として意識できるとい
うことです。（簡単に言うと、たとえば絵描きみたいな超変人扱いされる人格でも、世の中に絶対に
必要な活動であるし、そのための自分の人生でもあるということを信じて生きていけるといった事）
そして、文化とはその個人の存在（意識）を最大限認める器の容量を指し示しています。理解すると
いうことと直接結びつかないかもしれませんが、理解できないまでもそういうふうな考え方も存在す
るし、それもまたありようのひとつに違いないと信じることができる器量であり、なおかつ、そういった
理解できない存在について、人生の幅が広がったと認識できる度量を個人にもたらしむることを文
化と呼ぶと思います。<P>
　表現はすべからく、容量（度量）の広がりと深さを推し進めるために存在しなければならないと思い
ます。その意味で、現代美術の役割は昔も今も何ら変わることはありません。しかし、社会状況は
大いに変わってきています。<P>
　簡単に言えば、『個人が何を言っても、しょせん誰にも聞いてもらえないじゃない！』てな感じの蔓延
です。いきおい、長いものにはまかれろ的な御都合主義で行った方が楽だし傷つかないし、何をそ
んなに頑張る必要があるの？頑張ったからといってなにが手に入るの？てな感じに皆さんの意識
が傾いているように感じます。
そして、いわゆる平和ぼけですか。状況に対して自らの積極的なアプローチをしなくてもすでにある
規範に従っていれば間違いはないし、その状況は誰かがキープしてくれているから安心していられ
る。といった感覚ですか。<P>
　アートは、この状況に対し答えを出さなければなりません。<P>
　具体的な作品については、今のところなにも言えません。しかし現状で言える事は、表現は、膨張
し拡散し、人間の呼吸レベルまで自然に深く浸透して行かなければならないという事です。そして、
個人のプライドと、存在の確かさを確立する方向に社会に働きかけていかねければならないという
事です。<P>

　このテーマ、非常に難しいです。
</td>
</tr>
</table>]]></description>
<link>http://www.im-sendai.jp/archives/2000/09/post_21.html</link>
<guid>http://www.im-sendai.jp/archives/2000/09/post_21.html</guid>
<category>分かりやすい現代美術　近江俊彦</category>
<pubDate>Tue, 05 Sep 2000 02:00:14 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>現代美術の歴史と今後の表現</title>
<description><![CDATA[<table width="300" bgcolor="#ffffff">
<tr>
<td>
<BR>
<a href="http://www.im-sendai.jp/rensai/pro/o.t.pro.html" title="分かりやすい現代美術"><IMG SRC="http://www.im-sendai.jp/rensai/pro/oumi.hyousi.jpeg" alt="近江俊彦プロフィールに飛びます。"></A>
</td>
</tr>
<tr>

<td bgcolor="#ffffff">
<FONT SIZE="2">(上の写真をクリックするとプロフィールに飛びます。)</FONT>
</td>

<td>
No.2


</td>
</tr>
</table>
<table width="80%" bgcolor="#ffffdd">
<tr>
<td >
　
<CENTER> <FONT SIZE="6">現代美術の歴史と今後の表現</FONT></CENTER><BR>

<CENTER>（　一　）</CENTER><BR>

　<FONT SIZE="5">現代美術</FONT>とわざわざ"現代"という言葉をつけなくても、美術の歴史そのものがタブーに対する挑戦の歴史であったわ
けです。その対象は宗教・政治・風俗が対象とされてきました。どのあたりから、"現代"の冠詞が付くようになった
かというと、これは諸説あるでしょうが私の解釈では、マルセル・デュシャン(MARCEL DUCHAMP)による"概念芸術"が、すべての引き金
になっているように思います。<BR>

　<FONT SIZE="5">"概念芸術"</FONT>の説明の前に、デュシャンの時代についてお話しましょう。世紀末が過ぎ、美術の世界は一気に立体派・
野獣派などの造形的な力強さを競う時代でした。その中のトップスターはなんといってもパブロ・ピカソでしょう。
そして彼は死ぬまでその座を譲ることはありませんでした。そうです、造形性を表現に求めるのであれば、彼以降の
作家は常に２番手でいなければならなかったのです。このような巨人を前にしてデュシャンは考えました、「ピカソ
と同じ事をしていたら一生浮かばれない。」と。そこで、彼は猛烈に考えたのです。造形によらない、造形を超える
大きさと広がりを持つものはいったいなんだろうと。そこで導き出されたのが、作品を鑑賞する者の概念に、直接的
に強く訴えかければ良いのではないかと。
その思考から生まれたのが、概念芸術と呼ばれる表現形式です。<BR>

　これ以前の美術は、美術表現は、表現形式として「こう言った意味を既存の絵とか立体の表現の奥に忍ばせておくか
ら読み取ってください。」と言う態度の作品であったのが、「これをイメージしてみろ。」といった直接的に（別に
既存の表現のみならず、設計図のような具体的な絵や、文字・文章と言った具体的な手段も含む）表現し、鑑賞者の
イメージ（概念）を膨らませ、「イメージを膨らませ感動できるヤツは上級鑑賞者であり、イメージを膨らませられ
ないやつは感性不足だ。」と定義したのが"概念芸術"という表現手段なのです。
これは、２重３重の罠がしかけてあって、良くわからないとか、意味不明だということは無能を意味するような強迫
観念があるんですよね。それで分かったような気になって分かったような事を言う必要が生じるというタイプの芸術
様式です。<BR>

　そう、ここまで来ると、現代の訳の分かったような分からないような芸術という有り様も、
現代という時代性も、このような"概念芸術"のスタイルに大きく影響を受けている事に気がつかれる事と思います。
その結果として、芸術を解説する人の存在が重要となり、芸術は解説されなければ理解できない高尚なものとイメー
ジされるようになって、人々からどんどん距離をおいて考えられるものになってしまいました。<BR>
<P>
<P>


<CENTER>（　二　）</CENTER><BR>

　<FONT SIZE="5">人は、</FONT>社会の中で生活している限りにおいては、相対的な存在であると言えるかもしれません。身体的特徴から、能
力的な特徴まで、全て誰かと誰かの中間に位置づける事ができます。しかし、果たして本当に相対的なものなのでし
ょうか？<BR>

　人は（どんな動物でも同様でしょうが）、自分の五感から得た情報しか知り得ることはできません。また、その五感
は一人一人異なっていますから、自分という個人を形成する情報群は唯一無二のものであると言えるでしょう。しか
し、人は何故か自分の中に擬似の社会を創造し、自ら作った制限に束縛されて生きていく生き物でもあります。
具体的に言うと、生活水準（何と比較して水準なのか？）を向上するために、良い学校（日々生き生きと学べる？）
に入り、良い企業（日々生き生きと暮らせる？）に入って、理想的な異性（異性同志理解し合える？）と結婚し、理
想的な子供（？？？？？）を育て。<BR>


先月記述した、<CENTER><B><FONT SIZE="4">「頭では常識を信じその枠の中に居るべきだと考える」</FONT></B>状態です。</CENTER><BR>


　人は、正直なもので、心労がたたるとすぐ胃腸に潰瘍となって現れます。いわゆる、「体や心がついてこないという
不幸にみまわれた」状態ですね。
<BR>

　すでに、唯一無二の肉体と情報を身につけた、一人一人が、また、決して自分の概念以上の事は想像できない一人一
人が、自分の眼にはこのように写る。自分の耳にはこのように聞こえる。また、より細かいひとつひとつのことつい
て自分自身の感じを明確にしていったらどうでしょう。絶対の存在である自分が浮かび上がってきませんか？そして
この絶対の存在である自分の感性や、肉体により情報を吸収し、かつ情報を発散していくのだと思いませんか？
美術とは、結局のところ、他人の意見によって頭で理解し感動するものではありません。しかしながら、現代という
時代において、美術館や学校といった機関（または、学芸員や教師）を除いて美術に触れる機会がない以上、そこに
展示してある作品を、分かったような振りをして観るしかなくなっているのが現実だと思います。<BR>

　<FONT SIZE="5">何時からか</FONT>、現代美術がＢＩＧビジネスになり、作品を評価したり、金持ちに売りつける才能の有る人と表現者であ
る作家との間で、逆転現象がおきてしまっているのもまた、事実でしょう。作家は自信を失い、商売人としての学芸
員は、商売への興味を失い、まだ、かろうじてアートに金を出す企業や役所に取り入って、素人受けする作家の、く
だらない作品を露出するだけの時代でもあるのです。<BR>
<P>
<P>



<CENTER>（　三　）</CENTER><BR>

　さて、そうです。今後の展開です。
どんな表現のジャンルも同じでしょうが、表現には、それなりのルールというものが有ります。美術で言えば、美術
家や、画廊で展示するものである。そしてそれを見る人は静かに（分かったような顔をして）観ていかなければなら
ない、といったルールですね。<BR>

　作家はどう観ているかというと、展示場に入ったとたんに、面白いものが有るかどうか、全体を見渡し、つまらなけ
ればそそくさと会場を後にし、面白い作品が有れば、観たいだけ観てくる、また、作家がいれば話をしてくる。とい
った態度です。<BR>

　しかし、もう少し推し進めて、そこに美術作品が展示してあることを意識せずに五感で吸収してもらえるのが一番良
いと思っています。そうすれば、余計な解説者の存在は必要なくなりますからね。
もっというと、作品個別の良し悪しを問うための展示ではなく、鑑賞者自らの意思を開放するような作品を、あちら
こらに露出させる。そういった作品が身の回りにあふれた状況を想像するのがアートの当面のテーマだと考えていま
す。
</td>
</tr>
</table>
<BR>
<table width="80%">
<tr>
<td>


　<A HREF="http://www.MarcelDuchamp.org/">encounter with duchamp</A>
http://www.MarcelDuchamp.org/<BR>マルセル・デュシャンのページ
とても凝っていて素晴らしい。（英語）<BR>


　<A HREF="http://www.marcelduchamp.net/index.htm">The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even</A><BR>
http://www.marcelduchamp.net/index.htm<BR>同上<BR><BR>



　<A HREF="http://members.aol.com/mindwebart3/page12.htm">ART MINIMAL & CONCEPTUAL ONLY</A><BR>
http://members.aol.com/mindwebart3/page12.htm<BR>
たくさんのアーティストを紹介している。<BR>MARCEL DUCHAMPを選ぶと作品が見れる。

</td>
</tr>
</table>]]></description>
<link>http://www.im-sendai.jp/archives/2000/08/post_16.html</link>
<guid>http://www.im-sendai.jp/archives/2000/08/post_16.html</guid>
<category>分かりやすい現代美術　近江俊彦</category>
<pubDate>Thu, 03 Aug 2000 01:42:54 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>分かりやすい現代美術１</title>
<description><![CDATA[<table width="300" bgcolor="#ffffff">
<tr>
<td>
<BR>
<a href="http://www.im-sendai.jp/rensai/pro/o.t.pro.html" title="分かりやすい現代美術"><IMG SRC="http://www.im-sendai.jp/rensai/pro/oumi.hyousi.jpeg" alt="近江俊彦プロフィールに飛びます。"></A>
</td>
</tr>
<tr>

<td bgcolor="#ffffff">
<FONT SIZE="2">(上の写真をクリックするとプロフィールに飛びます。)</FONT>
</td>

<td>
No.1


</td>
</tr>
</table>
<table width="500" bgcolor="#ffffdd">
<tr>
<td >
　<FONT SIZE="5">現</FONT>代美術において、表現とは何を意味するものなのか？いきなり重いテーマから始めたいと思います。
構成は、大きく分けて以下のようにしたいと思います。順番や内容の濃い薄いは、書き手の気分次第
という事で容赦願います。

<BR><CENTER>
<table width="350" bgcolor="#ffe4e1">
<tr>
<td >
<FONT SIZE="4">１． 現代美術の役割とは
<BR>
２． 現代美術の歴史と今後の表現
<BR>
３． 現代美術以外の表現形態における現代性</FONT>
</td>
</tr>
</table></CENTER>

　<FONT SIZE="5">現</FONT>代美術の役割とは？私はこう考えています。
哲学が、人間の保守的な側面に対してあるべき姿をあらわにしていく作業だとしたら、現代美術は、
革新的な部分に対して、その可能性を広げていくことが役割だと考えています。
もう少し具体的に言うと、すでに存在する歴史や宗教、風俗・生活習慣といった側面から、人間像を
明確にしていく作業が、哲学の役割だと思います。
それに対し、固定的なものと考えがちな、風俗・生活習慣・価値観等の常識に対し疑問を投げかける
ことにより、自分と社会および自分の中の自分像と自分を構成する肉体と精神との関係を見つめ直す
ための材料を提供するのが現代美術の役割だと思います。<BR>
　<FONT SIZE="5">現</FONT>代美術表現とは、それを観て感動するためだけのものではありません。作品鑑賞という行為の終了
は、鑑賞の終わりではなく、むしろその表現に触れることにより、感動（というよりは感じること）
を通して、自分はこんなふうにも感じられるんだ、なんとなく常識だと思っていたことについてこん
な見方もあるんだということを提示することにより、自己探求への入り口に立つことを意味します。
そこから先は鑑賞する人、一人一人が感じ、考えていかなければなりません。<BR>
　<FONT SIZE="5">確</FONT>かに、常識の中で生きるだけであれば、現代美術は必要ありません。でも、本当に常識の枠の中だ
けで自分の体や心が充足していけるのでしょうか。もちろん、常識に従っているのことを頑迷だの
古いだのという気は毛頭有りません。ここで、問題なのは、頭では常識を信じその枠の中に居るべき
だと考えるのに、体や心がついてこないという不幸にみまわれた人達です。どうでしょう、いわゆる
学問や宗教・思考はそれに対して答えを与えてくれるでしょうか？思考は、つまるところ、道理や真
理の理解にとどまると思います。それに対し、現代美術が提供するのは、判断でも理解でもありませ
ん。自分の五感で感じた事を素直に受け入れられるだけの、自分だけの超常識を自分に納得させるた
めのきっかけです。<BR>
　<FONT SIZE="5">何</FONT>度も言いますが、現代美術は、完結した物語ではなく、鑑賞者一人一人を、全く別の世界へいざなう入り口を提供するものなのです。

</td>
</tr>
</table>

<table width="80%">
<tr>
<td>

近江俊彦氏へのメールは<BR>

<A HREF="mailto:Omi0728@aol.com">Omi0728@aol.com</a><BR>
<P>
<A HREF="http://www.im-sendai.jp/rensai/pro/o.t.pro.html">近江俊彦氏のプロフィールはこちら</A>
<P>
<A HREF="http://www.im-sendai.jp/cgi-bin/oumi.bbs/yybbs.cgi">近江俊彦掲示板はこちら</A><BR>
<FONT SIZE="2">感想や意見、近江さんへの質問にお使いください。</FONT>
</td>
</tr>
</table>]]></description>
<link>http://www.im-sendai.jp/archives/2000/07/post_11.html</link>
<guid>http://www.im-sendai.jp/archives/2000/07/post_11.html</guid>
<category>分かりやすい現代美術　近江俊彦</category>
<pubDate>Sat, 01 Jul 2000 01:32:26 +0900</pubDate>
</item>

</channel>
</rss>

